【映画】A.I. 





「わたしたちは2千年待つべきだろうか」


海辺にひとり立っている。海の向こうには輝く島々があることを知っているけれど、ここからは見えず海を渡ることもできない。触れることも、証明することもできない。ただ思い出し、浜辺に立ち尽くす。海のかなたに、神話のようにある島々とはなにか。それは過ぎ去った瞬間、還ってこない場所――2004年6月の温かいある日、シーツの間でたわむれあったあの朝。2005年9月の肌寒いある日、慢性的な疲労の中で絶望的に話し合ったあの夜――聖別されてしまった孤島。私はそこと和解しなければならないと感じる。それは現在の彼女と和解することではない。過去に起こった出来事のその時とその場所が私を訪れることだ。けれども通常の時間と空間の中では、どれだけ待っても不可能なことだ、たとえ2000年待ったとしても。

映画「A.I」は2001年にスティーヴン・スピルバーグによって制作された。主演はデイビットを演じたハーレイ・ジョエル・オスメント、ジゴロ・ジョーを演じたジュード・ロウ、モニカを演じたフランセス・オコナー。正直にいうと、この傑作がスタンリー・キューブリックの原案かどうとかいうことには興味がない。ひとつ言えるのは、ラストシーンがスピルバーグのアイデアなら、手柄は彼にあるということだけだ。

舞台は未来。「愛することができるロボット」としてデザインされたデイビットはモニカの家にやってくる。彼女は彼に7つの言葉をインプットして母親となり彼を迎え入れるのだが、実の息子が戻ったことをきっかけにデイビットは森の中で置き去りにされてしまう。バックミラーの中で小さく消えてゆく姿、この場面を最後にモニカ本人はデイビットと切り離されて二度と登場することはない。ひとりぼっちになってしまったデイビットは「本当の人間の子供」になる方法を探すためにさすらい、ジゴロ・ジョーと行動を共にするようになる。ちなみに、ジョーはセックス・ロボットとしてデザインされていて、穏健な形でデイビットの愛と対照を描いている存在だ。ジョーはセックスを知り抜いたロボット、愛のテクニカルな側面を知り抜いていると話す。

「ママも僕の客と同じさ、君がするサービスを愛してるんだ」

精巧にプログラミングされたサービスは愛と見分けがつかないものかもしれない。そもそも、私たちは愛とはなんなのかということを完全に言い表すことはできない。いくら言葉を振り絞っても、捕えるどころか指の間からこぼれ落ちるように、抜け落ちてしまうものが浮き上がってしまう。いや、それどころか何が抜け落ちてしまったのかさえ、塗りつぶされてしまい感じ取ることさえできない。ジョーには不可能で、デイビットの目指す「本当の人間」なら、それができるというのならば「本当の人間」とは一体なんだろうか?未来の検索エンジン、ドクター・ノウはデイビットが人間になるために探し求めるブルー・フェアリーの居場所を、ひとつの隠喩で答える「ライオンが涙する地の果て、夢が生まれるその場所」。

しかし、マンハッタンに着いたところで待ち構えているのは救いのない設定だ。自分がどこで、いつ生まれたのかさえ知らなかったデイビットが知るのは、この世界では自分がどうあがいても「本当の人間」などにはなれないということ、ラボには自分の量産機が進歩して快適になった形で作られていること、メカニカルな子宮で見た記憶はただの企業のロゴにすぎないこと。その結果に、水没したマンハッタンの海にそびえるビルからデイビットは墜落する。そして彼が選んだことは海の底で、かつてのコニーアイランドにあるブルー・フェアリーの像の前で、水空両用のヘリコプターの中に座り、祈り続けることだった。

もし、祈りが、ただ言葉を宙に投げ出し拡散させてしまうだけのものなら、私たちの祈りに何の意味があるだろうか。ヘリの中でデイビットはいつまでも、ただ祈り続ける。残酷な場面。ひとつの可能性や願いの前で祈り続ける、文字通り可能性や願いが叶うまで祈り続けるということは狂気に等しい。火に包まれた殉教者よりも恐ろしい、途切れることのないいつまでも続く時間。ブルー・フェアリーからは何の返答もなく、沈黙したままだ。あるのは欠点のない無謬の愛を組み込まれたロボットにのみ可能な祈り。一体、どこの変態野郎がこんなシーンを考えたのだろうか。彼が祈る対象は遊園地にあるハリボテだし、祈る内容が望みのないことは全編にわたって繰り返されてきたことだ。Windowsならこう言うだろう「このプログラムからの応答はありません……救ってくれる神もいない海底で、どこにも辿りつくことがない言葉を吐き続けたデイビットもついには機能を停止する。動くものが無くなった機内は静まり返り、祈りの言葉は霧散してしまう。

ところが、ここから物語は超展開を見せる。氷で覆われた2000年後の惑星に立方体の飛行物体が滑空してゆく。乗り物に乗っているのは宇宙人に似た未来のA.Iたちだ。彼らは氷の下から掘り起こされたデイビットに触れ、彼を蘇生させ、彼の記憶をスキャンする。眩しい光の中で目を開けたデイビットはメモリーによって再現された母親の家(Home)の中にいることを知るのだが、この場面は非常に象徴的だ。未来の住人たちは宙に浮いた丸い円盤を取り囲むように立ち、円盤に映る(あるいは円盤の中に別の空間があるのかもしれない)デイビットがいる家をまるで別の次元から見ているように見下ろす。もしかすると、ここは死後の世界なのかもしれない、ちょっと変わった天国なのかもしれない、と見ているものに思わせる。

ブルー・フェアリーの姿を借りた未来の住人が望みを聞くと、彼の海の底の祈りはひとつの言葉に結晶化する、「ママを生き返らせて(bring her back)」。彼らは「もし母親を呼び戻したとしても、たったの一日しか存在できない。そして二度と会うことはできない」と告げ、それでもいいのかと尋ねる。彼は答える。

「その1日はあのヘリの中の1日になるかも、永遠に続く1日に」

デイビットは思う、この家はよく似ているけれど、どこかちょっと違う感じがする。それにとても静かで、不思議だ。寝室のベッドには誰か寝ている。柔らかい朝日、起きたばかりの生まれたてのような髪の毛、悲しみのない穏やかな額、まどろんだ暖かいまなざし、そっとささやくような声、笑顔――母だ。

とても美しいシーンだ。と、同時にある戦慄を感じた。それはヘンリー・ミラーの最晩年の短編に対するひとつの回答がここにあるという予感だった。エディション・イレーヌから出ている「母、中国、そして世界の果て」という小冊子に「母」というごく短い小説がある。夢の中で、煉獄にいたミラーが「生涯憎みつづけた母」と出会うというものだ。煉獄という、「空間の果てもなければ時間も存在しない、いわば永遠のなかの一点」で母と再会するのだが、そこにいたのはとても奇妙な母の姿だった。

「かつて鉄のダンベルのように僕に重くのしかかった」母の言葉ではなく、包丁を突き付けて20歳年上の子持ちの未亡人との結婚に反対した母の姿でもない。輝くように若く、聡明な言葉はまるで別人のようだ。ミラーはその母と語り合う。作家はこの短編を書いたときすでに84歳になっていて、おそらく彼の母はとっくに亡くなっていただろう。そんな彼女が、彼がこうであって欲しいと願っていた理想の母親として語りかけてくるのである。そこには口論も喧嘩もない。自分が呼び戻した理想の母として、不在になった人と語り合う。これはなんなのだろうか?それは和解だ。

では和解とはなにか。それは失われた相手を生き返らせ(bring her back)語り合うこと、手元に引き戻すことだ。しかし、過去は現在から切り離されてしまって孤島のように隔てられている。和解をするということは、その島全体を現在に引き戻すことに他ならない。でも、どうやったらそんなこと出来るだろうか。フィリップ・K・ディックの小説に出てくるような時間と空間をねじ曲げるドラッグはどこにも売っていない。術策をしかける相手もいなければ、どこへ向かえばいいかもわからない。海図に島の場所は記されていない。デイビットがブルー・フェアリーにどこで会えるのか知らないように、私たちも和解に至る道を知るすべはない。運よく、彼のように祈り続けるための海底を持ったとしても、いつ可能性が成就するか。5分後だろうか?それとも10年後?それとも80万年後?私たちはいつ訪れるか分からない可能性にかけ、デイビットように永遠に2000年待つべきだろうか。それは去年を待つようなものだ。

「おっしゃるとおりです。ずっと去年が戻ってくるのを待っていました。でも、どうやら戻ってはこないようです」(「去年を待ちながら」フィリップ・K・ディック

私たちの<去年>は根拠をすでに失っている。一冊の辞書には、アルファベットの「A」と「B」のあいだに順番はあるけどそこに時間の経過はないように、未来のA.I.が「一度使われてしまった宇宙時間は二度と使えない」と言うように、私たちの<去年>も、常に使われたあとで、時間の経過を失って記憶となっている。この一度使われてしまった「去年」にふたたび時間を与えられるとしたら、静止した時の中でのみ可能だ。「A.I.」と、そして「母」が示したのは、夢の中、死後の世界、煉獄、2000年先の未来、空間の果てもなければ時間もない一点、永遠に続く一日の中でしか、失われた去年は戻ってこないということだ。時間のない場所の中とは、言葉が完全に叶う場所を意味する。そこでは愛の言葉、償いの言葉は、私たちのいる惑星の上とは異なり、何一つ損なわれることなく伝わる――映画のラストシーンで母がデイビットに伝える「I love you」は、そこで真に「I love you」となる――罪は清められ、嘆きは消え去り、祈りは叶う。つまり、時間のない場所に立って初めて、言語は完全に実行され、過去は甦る。逆に言えは、時間がある限り和解は成立しない。それは地球上では誰も幸福になれないということだ。


誰一人として地球上では幸福になれない。金持ちですら惨めだ。才能に恵まれた人間ですら、ありとあらゆる試練をくぐらねばならない。あたかもこの惑星そのものが病んでいる、はたまた呪われているかのようだ。呪われた惑星!間違いなく呪われた星だ。正気なのはブレイクやランボーのような狂った詩人たち。(「母」ヘンリー・ミラー

そう、呪われた惑星だ。言葉は有限の時間の中では決して相手には届かない。私たちの語り合いは虚しく空中に放り出されたままで打ち棄てられる。ヘリの中で祈り続けるデイビットの姿は、私たちの姿そのものだ。ごくまれに地上から離れる瞬間があったとしても、夢の時間が終わればまた元通り。再びむくわれない地上での生活が待っている。これを呪われた星と呼ばずになんと呼べばいいか?更に言うならば、そこで行われる和解も徹底的に一方通行で独りよがりなものにすぎない。なぜなら生き返った母親には、「A.I.」の表現を借りれば「魂がない」。魂を持たないゴーストは残像であり、本人の代用品である。糸巻きを投げ出して「いない、いない」とつぶやき、手元に引き戻して「いる!」と叫ぶ幼児の遊びのように煉獄の中で引き戻された母は、あらかじめプログラミングされたA.I.であるかのように――まさしくデイビットのように――完全な愛を与えてくれる本物の代用品だ。現実の母ではなく代用品の「母」という言葉を選んだときから、私たちの言葉は避けようがなく空虚で、あらかじめ虚しさで満ちている。ということは、この惑星上では不完全な形でしか機能しないということ、引き戻した母とは代用品であること、という言葉の本質である虚しさを二重に悟らされたことになる。それじゃあ、こんな和解に意味なんてあるのだろうか。




再び彼女の夢を見た。夢の中で彼女はセックスの後、すっ裸でほほ笑んでいた。孤独でうちひしげられた慰め。けれども、目が覚めた後に新しい風を、かすかな胎動を――虚しさの上に立ち上がるもの、静かにあらわれるものがあった。それは裂けた傷口、眼、女陰であり、そこからあふれ出るものは血、涙、精液だった。額から眼窩へ流れおち、耳朶から首筋をつたい肩に届く、甘く、苦い、ぬくもり。この温かさがなければとっくに凍え死んでいただろう。ひとつの歌も生まれずに、呪われた惑星は氷河に覆われてしまっていただろう。夢にはなんの意味もなく、一方通行の和解にはなんの可能性もないだろう。そう、和解がおこなわれるとき、裂け目そのもの、不和そのものが私たちの前に訪れるのだ。この取り引きで――もしこれが取り引きだというのならば――私たちは何かを失い、裂け目の前に立ち尽くすということを得る。ぼう然とただ立ち尽くす、すると聖痕のように傷口が突然、そして再び、あらわれ血を流し始める。そのとき何が起こるのか?そこで歌が生まれる。

この取り引きを通じて私たちはある種の恍惚とした宗教的体験に遭遇する。しかし、それは直接現実の世界に働くようなものではなく、根本的には象徴の世界に属する。いうなれば言葉についての鍵のようなもの、ささやかなものだけれども芸術を生み出すものだ。映画の中で未来のA.I.たちは言う「魂を持っている人間をうらやましく思う」。裂け目を持つことのないものは夢を見ることはない。けれども、デイビットは最後に物語が終わろうとする中、夢を獲得した。これはデイビットの機能停止を意味するものではない。未来のピノキオが2000年にわたる長い冒険の末、魂を獲得したということなのだ。夢とは象徴の世界、つまりは言葉の世界――空間もなく、時間もない世界――であり、夢を獲得するということは、象徴の世界を獲得すると同時に、現実そのものから薄皮1枚で切り離され、からっぽの部屋である魂の座が作られるということである。現実の世界から切り離されてしまった、最初にして最大の不和、私たちが生まれた場所との不和、この裂け目は誰にでもあり、生きている限り傷口はふさがらず血は流れ続ける(しかし、古くからある表現のように「涙も涸れ果てる」ということはありえるだろう)。彼はもとには戻れない裂け目を受け入れ言葉の森を、祈るための海底を、別のたとえを使うなら象を作る工場を、胸に宿した。彼は「本当の人間」になったのだ。人間は誰もが自分が生まれた場所、粉々に砕け散ってしまった場所と和解しなければならない。彼はそれをやり遂げた。夢からさめ、再び目を開けたデイビットが見るのは、もはや凍りついた地上ではない。




あんたは自分の意識の底にある象工場に下りていって自分の手で象を作っておったわけです。それも自分の知らんうちにですな(「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド村上春樹

すべての偉大な芸術家はこの道を通ってきた。裂け目がもたらす景色、むき出しにされ限りなく硬い、どこまでいっても底の抜けている世界の不思議(wonder)と向い合いながら。そうやって彼らは偉大な芸術を作り上げた。が、芸術とはなんだろう?それはそのものの中に時間を再生産――かつてあった時間を、かつてあったかもしれない時間を、これからあるかもしれない時間を、現在を――再び生み出すことなのではないだろうか。また、言葉を綴るということは、物語るということは、ここにいながらにして書かれた文章の中でひとつの夢を見ることではないだろうか。そうなら、私が取りうる倫理的な行動はひとつしかない。私は、座りながら、立ちながら、寝ながら、がつがつと食べながら、酒を飲みながら、煙草を吸いながら、くつろいでコーヒーをいれながら、ソファで本を読みながら、ベッドで性交しながら、泳ぎながら、走りながら、歩きながら、キーボードを叩き文章を綴る。そう、彼女を2000年待つかわりに。